目次
🔥【1】「三つのちがう約束」がすべての火種に
📅年 | 約束名(内容) | 誰と? | なにを言った? |
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1915 | フサイン=マクマホン書簡 | アラブ人 | 「戦ってくれたらアラブの国つくるよ!」 |
1916 | サイクス=ピコ協定 | フランス&ロシア | 「アラブの土地をイギリスたちで分けよう」 |
1917 | バルフォア宣言 | ユダヤ人指導部 | 「パレスチナにユダヤ人の国つくっていいよ」 |
👉 イギリスは同じ場所に3つの国をつくる約束をしてしまった!
→ アラブ人とユダヤ人の両方が「この土地は自分たちのものだ」と主張する原因に。
🏗️【2】イギリスが支配した時代(1920〜1948年)
🇬🇧イギリスの支配=「ユダヤ人だけにやさしかった?」
ポイント | 説明 |
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✍️ バルフォア宣言が国際法に | ユダヤ人に「移民・組織づくり・土地買い」の権利が認められた |
📈 ユダヤ人の人口が急増 | 1922年は11%→1947年には33%以上に。アラブ人が「追い出される」と不安に |
⚔️ アラブ側の怒りが爆発 | 1936〜39年に「アラブ大反乱」が発生。イギリス軍が空爆や集団逮捕で鎮圧 |
🧱 ピール委員会「2つに分けよう」提案 | 初の“二国家案”が出るけど、アラブ側は拒否。ユダヤ側は条件付きで受け入れ |
✋ 白書(1939年)で移民制限 | 今度はユダヤ側が「約束違うじゃん!」と怒って、武装グループ(イルグンなど)が英軍を攻撃し始めた |
🧨【3】イギリスは手に負えなくなり国連に“爆弾”を丸投げ(1947)
出来事 | 内容 |
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🇺🇳 1947年 国連分割案 | パレスチナを「ユダヤ国家」「アラブ国家」「国際管理のエルサレム」に分ける提案 |
✔️ ユダヤ側:OK | 自分たちの国が認められるから賛成 |
❌ アラブ側:NO | 「もともと住んでたのに分けられるのはおかしい」と反対 |
🏃 英国:静かに去る(1948年5月) | 問題が大きすぎて解決できず、撤退 |
🎇 イスラエル独立 → アラブ諸国と戦争 | ユダヤ人は国を宣言、アラブ諸国が攻撃 → イスラエルが勝ち、パレスチナ難民70万人が発生(ナクバ) |
⚖️【4】なぜここまで対立がこじれたの?
原因の構造 | イギリスの行動 | 今への影響 |
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🧬 ダブル民族自決の矛盾 | アラブとユダヤ両方に「国つくる」と約束 | 両方が「裏切られた」と感じ、お互いを信じなくなる |
🧑🤝🧑 人口と土地のバランス変化 | ユダヤ人移民だけが増えた | アラブ人が「自分の土地が奪われている」と思う |
🏛️ ユダヤだけに自治を許可 | アラブ側は政治組織を持てなかった | 並行社会に分かれてしまい、話し合いができないまま進行 |
❓ 問題を国連に押しつけて退場 | 国境や難民問題などを未解決で投げ出した | 「エルサレム」「入植」「帰還」など、今も同じ問題で争っている |
🧭【5】まとめ:イギリスが残した“ねじれ設計図”が対立の土台になった
ポイント | 意味 |
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🧩「三つの約束」が矛盾 | ユダヤとアラブの間で「どっちが本当?」と疑心暗鬼に |
🛠️ ユダヤ人社会だけを育てた | 片方だけが準備されたことで、アラブ側の怒りがふくらんだ |
🏃 問題を置き去りにして撤退 | 難民・国境・聖地などを残してイギリスは逃げた → 75年たっても解決していない |
🎯 今のガザ戦争や入植問題も、ここから始まった構図を引きずっている | 対立は「今の問題」ではなく「昔から続く設計ミス」から来ているということを忘れてはいけない |
📝 結論
イギリスは仲裁者のように見えて、実は「自分の都合で土地と約束を使い分けていた」
だからこそ、今も「お互いが相手の存在そのものを認めない」構図が続いている。
100年前の“ねじれ”が、今の戦争の火薬庫を作ってしまったのです。
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