北京=大きな中国(帝国的な中国)
北京が首都だった時期は、主に「広大な領土を統治する帝国」が成立していた時期と重なります。特に以下の時代が該当します。
- 元朝(1271年~1368年)
- モンゴル帝国の支配下にあり、中国だけでなく中央アジアやロシアの一部にも影響力を持つ広大な国家でした。
- モンゴル人を中心とした多民族国家であり、漢民族だけでなく、チベット、ウイグル、ペルシアなどの文化も影響を受けました。
- 明朝(1421年~1644年)(永楽帝以降)
- それまで南京にあった首都を北京に移し、北方のモンゴル勢力への備えを強化。
- 朝貢体制を通じて東アジア全体に影響を与え、大航海時代の鄭和の遠征など国際的な活動も行われた。
- 清朝(1644年~1912年)
- 満洲族(ツングース系)の王朝であり、チベット、モンゴル、新疆(ウイグル)、台湾などを統治する超広域国家を形成。
- 文字通り「中華帝国」の完成形として、漢民族以外の諸民族を含む多民族国家としての性格を強めた。
- 中華人民共和国(1949年~現在)
- 現在の中国も、チベットや新疆など多民族地域を含む国家であり、かつての清朝の版図を受け継いだ形となっている。
- 政治的にも「漢民族の国家」というより、「中華民族(多民族国家)」の枠組みを維持しようとしている。
南京=小さな中国(漢民族中心の中国)
南京が首都だった時期は、比較的「漢民族を中心とした国家」が成立していた時期と重なります。
- 呉(222年~280年)(三国時代)
- 長江流域を中心とした国家で、北方の魏に対して南方で独立した政権を維持。
- 基本的に漢民族主体の国家であり、異民族との関係は少なかった。
- 東晋(317年~420年)、南朝(420年~589年)
- 五胡十六国時代に北方を異民族が支配する中で、南方に漢民族政権が成立。
- 長江流域を中心に発展し、北方とは異なる「江南文化」が成熟。
- 明朝初期(1368年~1421年)
- 朱元璋が漢民族の王朝として南京を首都に定め、元朝のモンゴル支配からの回復を果たした。
- その後、永楽帝が北京へ遷都し、再び「大きな中国」へ。
- 太平天国(1851年~1864年)
- 漢民族による反清運動の一環として南京を首都に。
- 多民族国家の清朝に対抗し、「漢民族の王朝」を目指した。
- 中華民国(1912年~1949年、南京政府時代)
- 孫文と蒋介石が漢民族の近代国家を目指し、南京を首都に選定。
- しかし実際には、軍閥割拠や共産党との内戦によって、全国統一には至らなかった。
まとめ:「南京=小さな中国」「北京=大きな中国」の傾向
このように見ると、歴史的に南京は漢民族中心の「小さな中国」になりやすく、北京は多民族支配の「大きな中国」になりやすいと言えるでしょう。
首都 | 代表的な時代 | 中国の性格 |
---|---|---|
南京 | 三国呉、東晋・南朝、明初、中華民国 | 漢民族中心の政権、小規模な領土 |
北京 | 元、明(永楽帝以降)、清、中華人民共和国 | 多民族帝国、広大な領土 |
この傾向は、単なる偶然ではなく、中国の地理的・歴史的な条件によるものと考えられます。つまり、南京は長江流域を中心とした漢民族の拠点であるのに対し、北京は北方の異民族勢力との関係を前提とした帝国的な首都となりやすいということです。
コメント